栄高産業社内リレーブログ

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2011年04月10日

インターネットテレビ

 私が活動した災害ボランティアセンターの様子が福島県伊達市のインターネットテレビFDNで紹介かれています。是非ご覧ください。

尚、私はヒーローではありませんとインタビューを断りました。私が考えていることを他のスタッフが代弁してくれているので、ご了承ください。

http://www.f-date.net/2011/04/post-209.html
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2011年04月10日

「志」

P1000550-1.JPG 南相馬市へ向け、出発する前日3月24日に延岡営業所で佐藤社長から義援金と餞別を預かりました。その足で日之影町本社へ向かい、荷を降ろしてから洗車しました。

途中すれ違った整備士の甲斐さんがUターンして洗車場まで来て財布から2千円をくれました。「これで栄養点けて頑張って!」と甲斐さん。気持ちだけで充分ですよと私が言うと、甲斐さんは財布を広げ「これだけしか財布に入ってなくてごめんよ。だけど持ってって」。財布に領収証らしき紙が1枚しか残っていなかったので私は「じゃ千円だけもらいます」。甲斐さんは「いいからいいから。栄養点けて頑張って!」と去っていきました。

IMGP5003.JPG 私が南相馬市入りして4日後、30日。沖縄から幼なじみの親友が飛んできてくれました。◎ターシ(にじゅうまるたーし)というミュージシャンです。

唄で被災者を元気づけようというのではありません。我々ボランティアを元気づけようと呼びもしないのに飛んできたのです。ボランティアのためのボランティア。

私は彼が帰路につく4月3日、昼食時間に物資倉庫でライブを開催することを決めました。

協賛.JPG 活動を開始してから昼食も夕食もカップ麺ばかりでしたから、会社から預かった義援金で皆のお弁当を発注し、食べて貰いました。

お弁当.JPG 1個350円のお弁当。これほど豪華なお弁当を見るのも食べるのも久しぶりだと皆は喜んでくれました。

義援金の多くは日赤などの団体を通じて集められますが、被災者へ分配されるまでに時間がかかります。一時金は別として被災状況などの確認作業がありますから半年から1年の時間がかかるはずです。

南相馬市だけではないと思いますが、被災した生活保護世帯は避難所で寝泊まりし、3食食事が配給されているとして政府は生活保護費の支給を打ち切りました。鬼畜の如き政府に呆れて仕方ありません。

このライブとお弁当で南相馬市社会福祉協議会の方に「ボランティアを大切にするとどうなるか」が解って頂けたと思います。飯を食えば力がでます。その力は寝たきりの方や障害者を救う目に見えないライフラインとなるはずです。

私は先に書いた記事に添付した運営図の空白欄「まかない班」を埋めることを最後の仕事にしました。幸い災害ボランティアセンターのツィッターを見た福島市の方2名が毎日我々ボランティアセンターに通い、皆の昼食を作ってくれることになりました。

会社からの義援金で鶏肉を買い、初めて肉の入ったカレーライスを作り、豚もつで沖縄料理の「中身汁」を作り、最後に350リットルの食材用冷蔵庫を買いました。

IMGP4961.JPG 義援金で目に見えないライフラインを構築した後、原発20km圏内に取り残された犬3匹も滋賀県のNPO動物保護団体エンジェルスのメンバーと共に保護しました。避難時は鎖に繋いで置き去りにするよう指示が出ているのですが犬も猫も命があります。

数匹の猫も見ましたが、エサに釣られない猫は1匹も保護することが出来ませんでした。それだけが残念です。


7日10時半南相馬市を出て、東京を経由し滋賀県で1泊。翌28日夜22時に無事に高千穂町の自宅に戻りました。

2週間の休職を認めて頂いた上に義援金や餞別を預けて頂いた(有)栄高産業の佐藤社長を始め、全社員の皆さんにこころから感謝いたします。

P1000657.JPG 家に入り、ずっと胸に点けていた名札。汚染されているかと思い棄てようとしましたが、妻が「ちょっとくらい放射能があった方が良いのよ。とっておいたら」といいます。放射薬化学を学んだ妻が応援してくれたのもありましたが、現地へ行って良かったと思いました。

今後は地味に仲間を後方支援していきたいと思います。



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2011年04月09日

ボランティアとは?

チーム大阪.JPG  南相馬市災害ボランティアセンターでは小学5年生になった女の子から70歳を過ぎた爺さんまで老若男女様々な方が活動しています。

小学5年生の彼女の担当は、送られて来た救援物資のチョコレートやお菓子などを小分けする「お菓子班長」。
班員に2名の高校生男子がいます。子供ならではの発想で「女の子用パック」や「お年寄りパック」など、菓子の種類で分けていきます。

彼女のお母さんは社会福祉士で、職場が閉鎖状態なのでここでボランティアをしていて、最初彼女は自宅で一人母親の帰りを待つ状態でした。今はボランティアをしながら、福祉会館の和室でボランティアメンバーに勉強を教えて貰ったり、本を読んだりするようになりました。


神戸から来たお爺さん。毎朝ガソリンの調達に出かけ、黙々と我々の活動車両にガソリンを入れ続けます。何処に寝ているのか尋ねると「いや、寝るところはあります」としか言いませんし、燃料代の心配を口にすると「義援金がありますから」としか言いません。


大阪から来た「チーム大阪」。飲食店を営むネパール人男性と接骨医院を営む2名チーム。2トン車に食料とドラム缶2本の軽油をぎゅうぎゅう詰めにして駆けつけてくれました。





3月27日から活動を開始した私は、、先に来ていたJという男の熱い思いに感動しました。「困っている人の力になりたい」という思いを感じたからです。

私は今後のボランティア活動の統制をとる必要性を考え、そのJをボランティアリーダーに指名しました。


しかしある日、別行動をしていたJと一緒に被災地を回っていて、彼のボランティア精神を疑う様になりました。


被災者に救援物資を渡し、「自分は東京から来ました!彼は(私を指さし)沖縄から来たんです!みんなで頑張りましょう!」と握手をし、被災者を泣かせるのです。


IMGP4985.JPG津波に流された集落跡で、ご夫婦が泥の中を歩き回っていました。流されただろう家族を必死に探しているのだろうと思いました。

通り過ぎようとしたら、いきなりJがその夫婦の側に走って行きます。

「ナベちゃ~ん!ナベちゃ~ん!」と大声で呼び、手招きします。私は彼のボランティア精神を疑っているので無視して行こうとしました。


「ナベちゃ~ん!このご夫婦はさ!長岡から来て、流された娘さんを探しているらしいよ~!」



デリカシーのかけらもない男だったのです。


私は仕方なく、そのご夫婦に近寄りました。お母さんがポツポツと話を始めました。長岡に住む自分たちが被災した時に、娘とその旦那さんが駆けつけてくれたので、今回の地震後にこの地に嫁いだ娘に電話したけれどと連絡が取れず、現地に飛んできたら家の跡形もなくなっていて…探していると。



お母さんが話をしている時だったので、こっそりビデオカメラを回しているJを殴りませんでしたが、私はこの偽ボランティアを追放することをこころに誓いました。


翌朝、このJをリーダーから降ろし、32歳の若者をリーダーに指名しました。リーダーを降ろされたJは日増しに我が儘になり、社会福祉協議会のボランティアセンター運営にことごとく反発しました。何かを言えば「俺は命を賭けている」とぶち切れ話が出来ません。

4月に入り、全く組織とは別行動となったJが驚くべき行動を取り始めました。夜中に福島第一原発の門までクルマで近づきビデオ撮影。その後近くの道路でフラフラ歩く男を乗せて帰ってきました。自慢げに原発の警備が手薄なこと、男性を放り出した東電を批判しますが、誰にも相手にされません。が、スクープだと信じた福島テレビがその画像をニュースで流したのです。

更に翌朝ミーティングでは意味不明な演説を行い、社協の担当者を気に入らないと恫喝しました。


国の方針に従うと原発からの20km圏内には立ち入れません。でも、そこから動かない、動けない住民は存在します。何故、強制的に立ち入れないようにしないかというと、「人間の尊厳」の問題があるからです。

自己満足しか出来ないJのような偽ボランティアには理解できないでしょう。独りよがりな行動がどんな問題を引き起こすのか、考えるアタマもないのです。


私は沖縄県警警視の親友に相談し、6日に福島県警本部に出向きました。警察が本気で怒るとどうなるか解るでしょう。



そしてJが所属する右翼団体があるとい情報を元に、東京上野にある右翼団体本部に出向きました。状況を説明し、アホな活動を止めさせるようお願いするつもりだったのです。

状況説明が終わると統括本部長が「どこにでも馬鹿がいるんですね~」と人ごとのように言います。アタマに血が上った私は「何をいうんですか!団体のメンバーなら何故活動を止めろと言わないのですか!」と言うと、あっさり「渡辺さん、うちにはこんな馬鹿はいませんよ。金のない団体ですけど、まじめにやってますよ」と言います。

「!えっ!所属してない?」

アタマが真っ白になった私は非礼を詫び、外に出ました。ガセネタ。疲れすぎて自分の車を何処に停めたのか解らず、上野の一角をぐるぐる20分も回りました。


翌朝、目が覚めて冷静になって電話をかけました。「全日本愛国者団体会議」統括本部長吉田さんにです。ステレオタイプに右翼をみていて失礼な行動をとったことなど謝罪しました。

「ハハハ。みんな、右翼をそう見るんですよ。気にしないでください。明日は炊き出しボランティアで焼きそばを焼きに行こうとトラック3台準備しました。渡辺さんも頑張ってください」。


考えればそうだ。右翼が戦闘服姿、それも街宣車の前で焼きそばをやいても、怖がって誰も食べにこないだろう。

一個人に戻り、ボランティアに参加する。想像もしなかったことを初めて知ったのでした。



ボランティアとは?

ボランティアのカタチとは?

考え続けなければ、「誰かの役にたちたい」という初心は劣化するでしょう。

だからこそ毎日考えないといけないのだと思います。











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2011年04月04日

天国と地獄

 今日の午前中、宅配便が営業所止めで届いたと連絡があり、軽トラを調達し隣の相馬市へ行きました。活動している南相馬市へは暗くなって到着したので通過した相馬市の状況は判りませんでした。

10km程走り、相馬市内に入って衝撃を受けました。

ラーメン屋がごく普通に営業し、ホームセンターでは宝くじまで売っていました。


原発から30km圏の内と外。天国と地獄の境目がそこにありました。


普通の生活がおくれる相馬市民。屋内退避を命ぜられているのに配給物資を受け取るのに3時間も屋外に並ばなければならない南相馬市民。そして20km圏内から避難しないと国から見捨てられた南相馬市民。



昨日、災害ボランティアセンターのある福祉会館にトイレを借りに来た陸上自衛隊第一空挺団の二等陸尉に「あなた方の任務は何ですか?」と質問してみました。「我々の任務は南相馬市から要請があった時に市民を避難させる民生支援です」と答えました。

「20km圏内の小高地区に寝たきりの母親と娘さんがいます。一緒に行って避難させることは出来ますか?」と聞くと、「我々第一空挺団は20km圏内に入ることは許可されていません。必要があれば南相馬市から上級部隊へ連絡が行き、別の部隊が避難させることになるでしょう」との話でした。

陸上自衛隊の誇る先鋭部隊である第一空挺団。命令ひとつで敵地へパラシュート降下するエリート部隊ですから命令がなければ延々と待機するしかありません。



しかし、住民は待機しているあいだに餓死するでしょう。




ボランティアに志願してきた京都大学大学院原子核工学専攻の学生がいて、放射性物質に関するレクチャーを受け、そして安全性についての意見を求め、私と東京から来たJさん、地元のNさんと3人で20km圏内の地区の家を一軒づつ回りました。その結果、寝たきりの母親と娘さんの所在を確認しました。


国も県も市も把握できない情報はボランティアでしか集められないのです。


私がボランティアとしてやりたいのはボランティアを組織化して効率をアップさせることです。リーダーを指名し、ボランティアの適性を見抜き、才能を発揮できる配置を行い、新しく参加したボランティアでも即戦力になるシステムを構築することです。現地に来て8日目。ようやくカタチになりつつあります。

すでに収集したデータは南相馬市役所から使わせて欲しいと言われる程精度が高いものです。


あと数日しかいませんが、最後までやり抜くつもりです。

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2011年04月02日

「豊かな日本国」

 なかなかブログ更新ができずご心配をおかけして申し訳ありません。ようやく南相馬市社会福祉協議会ボランティアセンターの動きが円滑になり、多少余裕ができました。

自宅のある高千穂町を出発したのが3月25日。その夜は滋賀県大津市に泊まり、翌日26日19時に福島県南相馬市到着しました。

先ずは情報を得ようと南相馬市へ行き、ボランティアは南相馬市社会福祉協議会へ集まることを知りました。その後、クルマを福祉協議会の駐車場に止め、車中泊。

27日の朝、ボランティアの登録を済ませました。

その時はまだ4名しかボランティアはいませんでしたが、夕方には全国各地から集結し、10名程になりました。

聞いたところでは、27日の時点で相馬市のボランティアは700名程いたとのこと。福島第一原発から20km圏内地域を有する南相馬市では放射能汚染を恐れてか、その程度の人数しか集まりませんでした。


現在は25名程になり、ようやく組織として本格的に活動できる体制となりました。


この南相馬市社会福祉協議会ボランティアセンターでは地震、津波、原発事故で自主避難できないと南相馬市へ申請のあった高齢者、障がい者の被災者約350名のリストを元に安否確認を行い、食料や水、薬を届ける役目を担っています。


我々ボランティアグループは先ず南相馬市を5ブロックに分割し、2名一組で各被災者のお宅を訪問し、情報収集にあたりました。現在でもスーパーや商店は閉店したままで、市民は毎週火曜日と金曜日の12時から15時までの生活物資配給に3時間も並ぶ状態。我々が活動を始めた段階では社会的弱者と呼ばれる人たちは事故以来食料がつき、なかには6日間も食事をしていないお年寄りもいました。

我々は隣にある救援物資集積所である体育館から食料などの生活物資をボランティアセンターへ移し、安否確認と物資供給を同時に行うことにしました。



被災者へ渡すことができる物は水やカップ麺など質素なもの。それを手渡すと被災者は号泣します。「週一回回ってくるからね」と伝えるのが精一杯。


この現実は一体何なのか?日本国は豊かな国ではなかったのか?



涙が止まりませんでした。


津波で倒れた鉄塔



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