
途中すれ違った整備士の甲斐さんがUターンして洗車場まで来て財布から2千円をくれました。「これで栄養点けて頑張って!」と甲斐さん。気持ちだけで充分ですよと私が言うと、甲斐さんは財布を広げ「これだけしか財布に入ってなくてごめんよ。だけど持ってって」。財布に領収証らしき紙が1枚しか残っていなかったので私は「じゃ千円だけもらいます」。甲斐さんは「いいからいいから。栄養点けて頑張って!」と去っていきました。
唄で被災者を元気づけようというのではありません。我々ボランティアを元気づけようと呼びもしないのに飛んできたのです。ボランティアのためのボランティア。
私は彼が帰路につく4月3日、昼食時間に物資倉庫でライブを開催することを決めました。
義援金の多くは日赤などの団体を通じて集められますが、被災者へ分配されるまでに時間がかかります。一時金は別として被災状況などの確認作業がありますから半年から1年の時間がかかるはずです。
南相馬市だけではないと思いますが、被災した生活保護世帯は避難所で寝泊まりし、3食食事が配給されているとして政府は生活保護費の支給を打ち切りました。鬼畜の如き政府に呆れて仕方ありません。
このライブとお弁当で南相馬市社会福祉協議会の方に「ボランティアを大切にするとどうなるか」が解って頂けたと思います。飯を食えば力がでます。その力は寝たきりの方や障害者を救う目に見えないライフラインとなるはずです。
私は先に書いた記事に添付した運営図の空白欄「まかない班」を埋めることを最後の仕事にしました。幸い災害ボランティアセンターのツィッターを見た福島市の方2名が毎日我々ボランティアセンターに通い、皆の昼食を作ってくれることになりました。
会社からの義援金で鶏肉を買い、初めて肉の入ったカレーライスを作り、豚もつで沖縄料理の「中身汁」を作り、最後に350リットルの食材用冷蔵庫を買いました。
数匹の猫も見ましたが、エサに釣られない猫は1匹も保護することが出来ませんでした。それだけが残念です。
7日10時半南相馬市を出て、東京を経由し滋賀県で1泊。翌28日夜22時に無事に高千穂町の自宅に戻りました。
2週間の休職を認めて頂いた上に義援金や餞別を預けて頂いた(有)栄高産業の佐藤社長を始め、全社員の皆さんにこころから感謝いたします。
今後は地味に仲間を後方支援していきたいと思います。
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