栄高産業社内リレーブログ

記事カテゴリ

最近のコメント

Loading....

月別 アーカイブ

2012年08月02日

現場近くの地蔵さん

おはようございます。
心配していた台風10号も、何事も無く通りすぎて行きましたが、それにしても今年は雨が多い年だと感じています。

木曜日担当の佐藤です。

弊社が受注している土木現場近くに宇納間地蔵があるのですが、毎日通るたびに由来が知りたくて調べてみました。


宇納間地蔵尊の由来
平安朝の末期 天台の僧・正岸僧都が諸国行脚の祭、日向路を巡り宇納間村市木の里に梅花山宝蔵寺を建立し、地蔵尊を御本尊として祭祀された。

御本尊延命地蔵菩薩は、地区民の信仰を集めていた。古記録によれば当時の境内は八丁四方とされており、広くて立派なお堂は美くしかったと想像される。天正6年(1578年)キリシタン信者として有名な豊後の大友宗麟が日向に侵攻した際、兵火に罹りお堂は焼失したが、御本尊は山に逃れて安泰であった。このことから庶民の信仰はますます深く、お堂を建立し祭祀した。その後元禄元年(1688年)元の場所にお堂を再建して移奉した。

それから、百十数年後、徳川第11代将軍家斉(いえなり)の享和2年(1802年)、江戸市中に大火が起こり、延岡藩主内藤政韶(まさつぐ)藩邸も類焼の危機に頻した際、剃髪暁山(ていはつぎょうざん)と呼ばれていた前藩主政脩(まさのぶ)公が神仏に祈願されたところ、忽然と屋根に異僧が現れ、(古記録には「水を注ぐこと大雨の如し」とある。)ついに鎮火して藩邸は類焼を免れた。公は大変喜び直ぐに異僧の所在を探したが発見する事は出来なかった。その夜、公の夢枕に僧が現れ「我は領内宇納間の市木地蔵なり、切なる祈願により防火したり」と告げられた。
公は帰国後、市木地蔵に参拝、家紋「下り藤」を寺紋として授けられ、文化12年(1815年)秋に地蔵堂を再建し、御供田として1反2畝28歩を献納された。このことが幕府にも伝わり、徳川の家紋「三葉葵」の使用を許され、天皇家より綸旨下杯を賜った。
明治22年(1889年)老朽化により建て替えを計画し、明治25年(1892年)竣工した。明治28年隣家の火災によりお堂は類焼したため地蔵尊を一時全長寺に移奉された。
明治34年全長寺第12世哲英和尚の時、全長寺背後の鉄城山上に地蔵堂を建立し御本尊を安置して今日に至っている。
全長寺に移奉する以前の地蔵堂は宇納間字八重の市木にあったため「市木地蔵」とも言われている。
(宇納間地蔵尊由来より引用)

 
祖母に話を聞いた事があるのですが、田舎の祖父も車の無い時代に、祭りの時は徒歩で山道を一週間かけ宇納間地蔵にお札を頂きに行ってたそうです。
(大変だったろ~な)

ブログランキングに参加しています。
どうぞ、クリックをお願いします。

トラックバック(0)

このブログ記事を参照しているブログ一覧: 現場近くの地蔵さん

このブログ記事に対するトラックバックURL: http://eiko-35.co.jp/blog/mt-tb.cgi/1122

コメント(2)


身近なところに、 知らないことが沢山有る物ですね。知らないふるさとの歴史を尋ねるのも楽しみです。 最近、邪馬台国は延岡の構口にあったと言う説があることを知り、楽しくなりました。


身近なところに、 知らないことが沢山有る物ですね。知らないふるさとの歴史を尋ねるのも楽しみです。 最近、邪馬台国は延岡の構口にあったと言う説があることを知り、楽しくなりました。

コメントする


画像の中に見える文字を入力してください。

AX