栄高産業社内リレーブログ

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2011年10月13日

三田井親武

おはようございます。
木曜日担当の佐藤です。

今回私の住む都、宮水神楽保存会に神楽の依頼があり、毎晩のように宮水神社で練習が行われています。
少年時代は良く、ここで良いことや悪いことをして遊んだものでしたが、今では、ほしゃどん(神楽の舞い手)として通うようになりました。
(恩返しをする為にも) ???

集落の人達はこの神社を親武さんと読んでおられます。
宮水神社(親武さん)の由来は神社にも書かれています。

その由来をネットで調べましたが
(う~ん神社に書かれている事と同じだな~)

宮水神社の位置です。
方財地図

なぜ、集落の人達が親武さんと言うようになったのか、親武さんの由来を紹介します。

親武さん、宮水神社建立の由来
天正19年、当時延岡城主高橋元種は、何としても西臼杵地方を手に入れたかった。しかし、そのためには西臼杵地方を治めていた三田井親武をどうしても討たなければならなかった。そこで元種は、親武の家来、甲斐宗攝(当時中崎城主)に謀反を起こさせ、9月27日真夜中、仲山城(現在の向山)にて三田井親武を討ち取らせた。宗攝に討ち取られた親武の首(頭)は、29日舟の尾に送られたが、家来の者が首を持って宮水まで来ると、首が重くなり、歩くことも出来なくなったので、このことを本陣に注進したところ、不思議なことであると宮水で首実検が行われた。首実検の終わった親武の首は、このあたりの住民が貰いうけ、泣く泣く近くの森に葬った。その後享和3年(1803)三田井氏の支族、興梠権兵衛重綱、庄屋甲斐又兵衛、中村忠兵衛が協議して宮水の首塚に石碑を建立した。安政2年4月、中村忠兵衛の曾孫、中村寅五郎が主催して、高千穂18ヶ村の庄屋に働きかけて寄付を集め、三田井親武を祀る親武大明神の神社(宮水神社)を建立した。明治15年8月、周辺数社を合祀し、現在に至っている。

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